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■ビートルズ解説No.5 教科書 「ロックの歴史」

第1章−近代西洋音楽の成立(ルネサンスからクラシックへ)

1.西洋近代音楽の成立

 西洋における音楽は,ギリシア・ローマの古典時代から,自由人の教養として重視されてきた。中世においては,教会音楽や吟遊詩人(トゥルバドゥール/11〜13世紀に,南仏のラングドックなどに出た吟遊詩人群。作詞・作曲して,たて琴にあわせて城から城へ巡遊して歌った。その詩は騎士的恋愛を賛美した叙情詩を本質とする。〈数研出版『世界史辞典【新制版】』〉)らの活動により発展したが,現代へつながる西洋の音楽は,基本的に15〜16世紀に登場した,ルネサンス音楽をその基礎とする。その後,17世紀には絶対王政国家の成立により,至高の権力を握った君主や貴族たちの慰みのためのバロック音楽が成立し,オーケストラの形態・演奏方法・音楽理論等,現代音楽の原形が形成された。(この時期の音楽が現代大衆(ポピュラー)音楽にも大きな影響を与えていることは,バッハのオルガン曲『小フーガ・ト短調』と,ディープ=パープルの『紫の炎』におけるジョン=ロードのオルガン=ソロを比較すれば明らかである。)しかし,この時代の器楽曲・声楽曲・オペラ・バレエ音楽などの音楽は,基本的に支配者の音楽であり,一般大衆の音楽は,祭りや日常生活の中で自然発生的に歌われるようになった“民謡”(フォークロア,folklore )や,“子守歌”(ナースリー=ライム, nursery rhyme),あるいは,辛い労働の慰めとしての“労働歌”など,非常に生活に密着したものであった。しかし,これらは民間で口承で伝えられるものであり,いわば現代の“ポピュラー音楽”的な要素を多分に持っていた。

2.バロックからクラシックへ

 バロック音楽の流れは,17〜18世紀のバッハの時代から始まり,18世紀末〜19世紀初頭に,モーツァルトベートーヴェンによって“古典(クラシック)音楽”として完成される。しかし,この時代になっても音楽は基本的には支配階級のものであり,彼らの聴衆は,不特定多数の一般大衆ではなく,特定の保護者(パトロン)であり,モーツァルトも,まだ保護者の支援によって生計を維持する必要があった。ベートーヴェンは,初めて楽譜の売り上げなどの,“大衆むけ音楽”で生活できた音楽家であると言われる。彼は,当時最も前衛的な作曲・演奏家であり,その後19世紀に発展するロマン派音楽の基礎を築いた。

 19世紀後半になると,民族性やロマンチシズムを強調した,“ロマン派音楽”が登場する。しかし,その代表者であるショパンチャイコフスキーらの音楽もまた,新たな支配階級”となったブルジョワ(資本家)たちのものであり,音楽が下層階級をも含む一般大衆のものになるには,もうしばらくの時間を有した。


第2章−大衆(ポピュラー)音楽の成立

1.ジャズの時代〜アメリカ黒人音楽の発展

 19世紀後半,合衆国の黒人たちは,奴隷身分から解放はされたが,その後も,人種差別や黒人排斥の社会機構の中で,最底辺での生活を強いられていた。そういった中,彼らは,アフリカ伝来の強烈な精神性を持つ教会音楽ゴスペル(gospel)や,即興的なメロディのブルース(blues)を発展させていった。強い人種性・民族性を残すこれらの音楽は,やがて白人音楽の影響を受けて洗練・発展し,1900年頃に,アメリカ南部のニューオリンズで器楽演奏を主体としたジャズ(jazz)として発達し,第一次世界大戦後の1920年代には,ポピュラー音楽の主流となった。当初2拍子(2ビート)であったジャズは,1930年代には“揺れる”(スウィング)ような躍動的な4ビートへと転化し,ダンス音楽として中心的な役割を果すようになり,1930年代に一般化してきたラジオ放送にのって,全国に広まっていった。この頃になると白人音楽家も台頭し,ビッグ=バンドによる演奏が行なわれるようになってきたことも注目される。

2.アメリカ大衆音楽の発展

 20世紀初頭に登場した,アメリカの大作曲家ジョージ=ガーシュウィンは,ジャズとクラシックを融合させることにより,ジャズの芸術化を図り,“ミュージカル音楽“の確立者として知られる。そして,こういった音楽を管理した音楽出版社が数多く存在したのが,ニュー=ヨークの,いわゆる“ティン=パン=アレイ”(Tin Pan Alley,直訳するなら「どんがらがった通り」)である。やがて,音楽が映画と結びつき,ハリウッド映画が全盛時代を迎えると,このティン=パン=アレイが,世界の大衆音楽を支配する時代が到来するのである。このような中で,1930年代,一世を風靡する,世界初の“ポピュラー=シンガー”が登場した。

 ビング=クロスビーは,『ホワイト・クリスマス』の大ヒットで知られるが,初期のミュージカル映画のスター歌手として,世界的な人気を獲得した。クロスビーが,最初のポピュラー=シンガーと呼ばれる理由は,彼のささやくような独特の歌声にもあった。それまでの歌手は,1000人規模のホールで,“生で”(ライブ)演奏することが前提とされ,そのため喉を大きく開いて,よく通る声で歌う,いわゆるクラシック唱法をとっていた。しかし,マイクロフォンとアンプ・スピーカーなどのPAシステムが,「歌」そのものをも変えてしまった。彼の歌唱法は,音楽に新しい局面をひらくこととなった。

 1940年代になると,フランク=シナトラが,新たなスーパースターとして登場した。シナトラのパフォーマンスには,若い女性が殺到し,もはやそれまでのように,まず楽曲があって,それを誰がどのように歌うかを楽しむという,クラシックやジャズ=スタンダード的な音楽鑑賞法は影をひそめ,どんな曲でもいいから,“あの歌手”が歌うのを聞きたいという,「何を歌うかではなく,誰が歌うか」という,現代ポピュラー音楽の基本的な鑑賞法が確立されたのである。

3.黒人音楽の新展開

 ゴスペル,ブルース,ジャズ等の黒人音楽は,当初はあくまでも黒人だけのものであり(“人種音楽”と言う意味で,レイス=ミュージック(race music)と呼ばれた,南部中心の,非常に“泥臭い”存在であった。しかし,それらの黒人音楽は,1940年代までには北部にも広がり,白人の音楽家も増えてファンも増加していった。そして,このジャズやブルースに電気楽器が加わり,ビートの効いた都市の音楽へと転化してゆくと,この音楽はリズム=アンド=ブルース(R&B)と呼ばれるようになった。また,ボーカルとコーラスを重視したドゥ=ワップ(doo-wap)も登場し,さらに大衆性を強めていった。

4.ロック=アンドロールの誕生

 一方,西部などを中心に,白人開拓者たちが民謡から発展させたカントリー=ミュージックは,やがて,1920〜30年代にはアメリカ全土で愛好されるようになり,ハンク=ウィリアムスなどの大スターを生んでいた。1950年代中期,この白人のカントリー音楽とリズムアンドブルースが相互に影響しあって,強力なリズムを持つダンス音楽,ロック=アンド=ロール("rock"も"roll"もともに“揺する”という意味,ロックンロール"rock'n roll"ともいう)が誕生したのである。

 世界初のロック=アンド=ロールのヒット曲と呼ばれるのが,1955年に,ビル=ヘイリーと彼のバンド“コメッツ”が演じた,校内暴力をテーマとした映画『暴力教室』の主題歌,『ロック・アラウンド・ザ・クロック』である。この曲は若者を中心に爆発的にヒットし,一躍ロック=アンド=ロールの名を世界に広めることになったが,ビル=ヘイリーは中年の白人男性であり,ロック=アンド=ロールが真に若者文化のシンボルとなるためには,もう一人の人物の登場を待たなければならなかった。


第3章−ロック=アンド=ロール創世期〜エルヴィスとその時代

1.プレスリー登場

 1954年,テネシー州メンフィスの若きトラック運転手,エルヴィス=アロン=プレスリーが最初のレコードをレコーディングし,1956年にエド=サリヴァン・ショウに出演し,『ハートブレイク・ホテル』を歌ったとき,ロック=アンド=ロールは新しい歩みを始めた。ビル=ヘイリーとは違い,若く,甘いマスクとセクシーな肉体をもった彼は,『ハートブレイク・ホテル』『監獄ロック』などの激しいロック=アンド=ロールや,『ラヴ・ミー・テンダー』などの甘いバラードで,たちまち全米の若者たちの心をとりこにし,またたく間に世界中の若者のスーパーアイドルとなった。こうしてロック=アンド=ロールは,大人たちの眉をひそめさせながらも,確実に“若者の文化”となったのである。(実際,エルヴィスがアメリカのテレビショウ「エド=サリヴァン・ショウ」に出演した時には,テレビ局は非難を恐れて,エロチックにうごめくエルヴィスの下半身を放送しなかった。)

2.ロック=アンド=ロールの発展

 プレスリーの登場と時を同じくして,アメリカに初期ロック=アンド=ロールのスターたちが,きら星のごとく登場した。『ロック・アンド・ロール・ミュージック』『ジョニー・B・グッド』で知られる,ロック=アンド=ロールの詩人チャック=ベリー(黒人),圧倒的な声量とファルセット唱法で,『ロング・トール・サリー』のヒットを持つリトル=リチャード(黒人),バンド“クリケッツ”を率い,ギターバンドの基礎を築いたバディ=ホリー(白人),ロカビリー(カントリー=ロック)ブームの立役者カール=パーキンス(白人)やジェリー=リー=ルイス(白人,『火の玉ロック』)らは,その独特のスタイルで,あっという間にアメリカの音楽界に支配的な地位を打ち立てたのである。(その他にはエヴァリー=ブラザーズ(白人),ファッツ=ドミノ(黒人),ロイ=オービスン(白人)らがいる。)

 この時期のロック=アンド=ロールの特徴は以下のようなものであった。

1.和音(コード)進行は単純で,往々にして"A D E"などの3つのコードで作られており,メロディも概してシンプルである。
2.歌詞にはあまり芸術的な内容は感じられず,主に恋愛・自動車・学校・パーティ・旅行などのティーンエイジャーの3日常生活を主題とした,ストレートで世俗的なものが多い。
4.ビッグバンドではなく,少人数のグループで演奏され,リード楽器として電気ギター,サックス,ピアノが活躍する。
5.8ビートのリズムで演奏されるが,4ビートの感覚が残っているものも多い。
6.演奏に揺れるようなリズム感がある。
7.演奏や歌は荒々しく叫ぶようであり,しばしばすごくカン高くなる。
8.奏者はリズムにあわせて,ダイナミックに体を動かしながら歌ったり演奏したりする。

  (『ロック−スーパースターの軌跡』 北中正和 講談社現代新書より)

 トーマス=エジソンやグラモフォンによって発明されたレコードは,20世紀初期にはラジオに次いで実用化されてはいたが,1950年代までは78回転のSPレコードが主流であり,一般的には普及の度合いは低かった。しかし1950年代半ばに,製造過程が単純で,割れにくく運びやすい45回転シングルレコードが一般化し,45回転シングルと33回転LPの両方が演奏できるプレーヤーが発売されると,ハイファイ=オーディオ=システムが急速に普及し,それに伴って,シングルレコード収録時間に適当な2〜3分の演奏時間のロック=アンド=ロールも,若者たちの間に急速に広まっていったのである。

3.ロック=アンド=ロールの死

 このように隆盛の一途をたどってきたロック=アンド=ロールであるが,1950年代末期には,壊滅的な打撃を受ける事件が続発した。

 1958年,軍隊に徴兵されたエルヴィス=プレスリーは,兵役忌避が可能であったにもかかわらず,“愛国者”の姿を全うするため徴兵に応じ,西ドイツ(当時)の部隊へと配属され,2年間芸能界から姿を消すこととなった。また,華麗なピアノ演奏で人気のあったジェリー=リー=ルイスは,前夫人との離婚手続き終了以前に14歳の従姉妹との結婚を発表し(1958),この“重婚”のスキャンダルによって,芸能界から干されてしまった。さらに1959年,バディ=ホリー,リッチー=ヴァレンス(『ラ・バンバ』の大ヒット)らのロック=アンド=ロール=スターたちを乗せた飛行機が墜落し,同年,人気絶頂のリトル=リチャードは突如芸能界を引退し,キリスト教伝導生活に入った。またチャック=ベリーは,黒人差別的な判決で,当時すでにほぼ死法となっていた“売春婦移送法”違反により,2年間の服役を余儀なくされ,1960年には自動車事故でエディ=コクランが死亡し,同乗のジーン=ヴィンセント(『ビー・バップ・ア・ルーラ』のヒットで知られる)も重傷を負った。このようにして1950年代末期“ロック=アンド=ロールの死”とも言うべき大事件が続発し,ロック=アンド=ロールの人気は一時的に衰退せざるをえなかった。

 この間隙を埋めたのは,コニー=フランシス(女性)・ニール=セダカ(『カレンダー・ガール』)・ポール=アンカ(『ダイアナ』の大ヒット)らの,口当たりがよく,ソフトで無害なティーン=エイジャーのアイドルたちであった。彼らの音楽は,確かに若者たちに爆発的に受けはしたが,ロック=アンド=ロールを知り,若者特有のフラストレーションのはけ口を,ロック=アンド=ロールの反抗のエネルギーに見いだしていた若者たちにとって,何か物足りないものであった。エルヴィスなきあと,若者には,誰か自分たちの代弁者が必要であった。

4.ロック=アンド=ロールの商品化

 ロック=アンド=ロールが若者に受け,商売になることが分かると,ティン=パン=アレイの音楽業界も,ロック=ビジネスに本格的に参入してきた。ジェリー=ゴフィンとキャロル=キングのソングライター=チームや,ニール=セダカバート=バカラックなどのプロフェッショナルが次々に名曲を生み出し,ハリウッドで活躍したフィル=スペクターは,“売れるレコード”を制作する仕事としての“プロデューサー”の役割を確立した。また,ロス=アンジェルスのビーチ=ボーイズは,底抜けに明るいウエストコースト=ロックを作り上げ,ロック=アンド=ロールビジネスは,完全に商業ベースに乗ってきた。

 一方,その反動で,ティーンアイドルに飽き足らない学生たちに,フォーク=ソングの人気が高まっていた。中でもボブ=ディランは,1962年の『風に吹かれて』以来,哲学的で難解な歌詞と,その,媚びない朴訥なパフォーマンスで,一部にカリスマ的な人気を獲得していた。彼は黒人差別や反戦運動など,社会問題を鋭くえぐる作品を発表し続け,いわゆる“抗議の歌(プロテストソング)”というジャンルを確立し,一世を風靡した。このフォークの流れは,ピーター=ポール&マリージョーン=バエズらによって受け継がれてゆくが,そこには,歌詞の内容の面で革命的な進化があったものの,若者の反抗のエネルギーのはけ口である“ビート”がなかった。ディランは,決してエルヴィスにはなれなかったのである(なる気は毛頭なかったろうが)。フォーク=ソングが大衆的なものになるためには,ビートを効かした,フォーク=ロックの出現を待つ必要があった。そしてやがて,ディランはフォーク=ギターをエレキ=ギターに持ち替え,サイモンとガーファンクルは,エレクトリック版『サウンド・オヴ・サイレンス』の大ヒットを生むのである。しかし,まだまだアメリカの若者たちには,“自分たちの”音楽が存在しなかった。そして,1964年,それは海の彼方から突如としてやって来た。


第4章−ロック=ミュージックの完成期〜ビートルズの時代

1.ビートルズ登場

 1964年2月,初のアメリカ公演のため,ニューヨークのJFK空港に降り立った4人の若者たちを待っていたものは,1万人近い若者たちの絶叫であった。

 彼らの,(事実上)アメリカでの最初のシングルレコードとなった『抱きしめたい』は,あっという間に50万枚という記録的なセールスを達成し,その年の春には,全米チャートの1位から5位までをビートルズの曲が独占し(1.『キャント・バイ・ミー・ラヴ』/2.『ツイスト・アンド・シャウト』/3.『シー・ラヴズ・ユー』/4.『抱きしめたい』/5.『プリーズ・プリーズ・ミー』),ベスト100の中に14曲を送り込むという,前代未聞の“奇跡”が起こった。彼らの行くところ,“ビートルマニア”と呼ばれる熱狂的なファン現象が巻き起こり,巨大なレコード売り上げ・24時間連続のラジオ放送・5万人規模の野球場コンサート等々,彼らはショウ=ビジネスの常識を次々と塗り替えていった。

 ザ=ビートルズ初めてイギリス出身のロックミュージシャンが,アメリカを征服したのである。

 彼らの演奏する曲は,多くのレノンとマッカートニーのペンによるオリジナル曲を含んでおり,かつてのロック=アンド=ロールのカバーではあっても,まったく新しい曲として仕上げられていた。また,メンバー全員が楽器を演奏しながら歌うというスタイルも斬新であり,彼らの“長髪”やファッションも,世界の若者文化や風俗に革命的な影響を与えた。ここに,ロックはまったく新しい時代を迎えたのである。

2.ブリティッシュ=インヴェイジョン

 ビートルズの成功はイギリスの若者たちに大きな夢を与えた。彼らの大成功をきっかにリヴァプールのバンドブームは沸騰し,“リヴァプールサウンド”と呼ばれるビリー=J=クレーマー&ダコダスゲリー&ザ=ペースメーカーズなどのバンドが登場し,ロンドンなど他の地域からも,R&B的なザ=ローリング=ストーンズアニマルズ(『朝日のあたる家』),また,ジェフ=ベックエリック=クラプトンジミー=ペイジの3大ギタリストを擁したヤードバーズ,ハード=ロックの元祖ザ=フーキンクス(『ユー・リアリー・ガット・ミー』)らの,一時代を画するようなバンドが,堰を切ったように登場した。中でもデビュー以来30年以上も存在し,メンバー・チェェンジを繰り返しながらも,世界最大級の人気を誇っているのが,ローリング=ストーンズである。ミック=ジャガー(ヴォーカル)とキース=リチャーズ(ギター)を中心に結成されたストーンズは,ビートルズが,洗練されたイメージを大切にし,ポップで親しみやすい音楽を発表し続けていたのに対し,黒っぽいR&Bを主に,ミック=ジャガーの悪魔的なヴォーカルを中心に据え,ドラッグ(麻薬)や暴力を肯定する“不良少年”のイメージで売っていた。彼らは,ビートルズが「抱きしめたい」と歌うとき,「俺はむしゃくしゃするんだ」と歌い(『サティスファクション』),かつての“反抗する若者”のチャンピオンに成長していった。このような,ビートルズをその頂点とする英国系バンドのアメリカ=世界進出は,“英国の侵略”(ブリティッシュ=インヴェイジョン)と呼ばれ,ここにロックは完全に世界の若者の共通語となった。

 なお,1960年代後半,日本でもザ=タイガース(ヴォーカル:沢田研二)・ザ=テンプターズ(ヴォーカル:萩原健一)・ザ=スパイダース(ヴォーカル:堺正章)などの活躍により,“グループサウンズ”と呼ばれるバンド=ブームが起こった。これは明らかにブリティッシュ=インヴェイジョンの影響を受けたものではあったが,音楽の制作過程はプロの作詞・作曲家チームが作った歌を,ユニフォームに身を包んだバンドが演奏するという,ティン=パン=アレイ的なものであり,ブームが去ったあとは,日本ロックの主流とはならなかった。

3.リズム&ブルースからソウル=ミュージックへ

 ロック=アンド=ロールの生みの親である,黒人のR&Bは,ロック=アンド=ロールの商業的成功の陰で,白人音楽に軒を貸して母屋を取られた形になり,衰退の一途をたどっていた。しかし,1958年“北部の”デトロイトで設立され,60年代になるとスモーキー=ロビンスン&ミラクルズスティーヴィー=ワンダーシュープリームス(中心はダイアナ=ロス)を擁し一大黒人音楽帝国を築いたモータウン=レコードが大成功を納めると,黒人音楽も転換期を迎えた。モータウンは,いまだエスニックな趣を強く残していたR&Bに,白人音楽の要素を取り入れ,60年代の公民権運動(黒人差別撤廃運動)の中で,社会的にも経済的にも徐々に地位が向上してきた黒人中産階級の要求に応えるヒット曲を量産した。この頃から黒人音楽は,R&Bから“ソウル=ミュージック”と呼ばれるようになった。この時代,質・量ともにアメリカでブリティッシュ=インヴェイジョンに対抗できたポピュラー音楽は,このモータウンのソウルのみであったと言ってよいだろう。

4.“サイケ”の時代

 1960年代後半,アメリカ西海岸に奇妙な若者風俗がおこった。サンフランシスコを中心に,髪とひげをぼうぼうに伸ばし,半裸で,あるいは万華鏡の中の世界のような極彩色の衣装に身を包み,体に花を飾り,マリファナ(大麻)を楽しみながら,共産主義的なコミュニティーを形成し生活する,ヒッピーと呼ばれる若者たちが大量に登場したのである。彼らの文化は,マリファナやLSDを初めとするドラッグ(幻覚剤=麻薬)によって引き起こされた幻想的精神世界を強調したことから,“サイケデリック”(精神拡張的)文化,あるいは,体に花を飾った姿(スコット=マッケンジーは『サンフランシスコに行くときは髪に花を挿すのを忘れずに』〈日本題は『花のサンフランシスコ』〉と歌った),またその絢爛さから,“フラワー=ムーヴメント”と呼ばれた。その潮流の中で独自の音楽世界を築いていったのが,西海岸から登場したジェファースン=エアプレイン(後のジェファースン=スターシップ)や,『夢のカリフォルニア』の大ヒットで知られる,ママス&パパスなどであった。

5.サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

 このような若者文化の急展開の中でも,ビートルズは常にその先頭を走っていた。

 1965年の名曲『イエスタデイ』では,バックに弦楽四重奏団を採用し,ロックとクラシックの融合を図り,同年のアルバム『ラバー・ソウル』で,ジョン=レノンはディランの影響を受け,詞の面での“ロックの哲学化”を行った。また,1966年のアルバム『リヴォルヴァー』では,電子音楽やインド音楽とロックの融合を図りロックに新たな方向性を与えた。そして1967年,ビートルズは,歴史的アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表した。このアルバムはポール=マッカートニーのアイデアで,架空のバンドが架空の聴衆を前に演奏するという体裁をとっていたが,そこに描かれた世界は,ドラッグ文化・世代の断絶・インド音楽・ジャズなど,60年代のすべてを音楽で描き切り,『サージェント・ペパー』は60年代ロックの集大成,ロック史上最高のアルバムといわれた。実際,このアルバムは,レナード=バーンスタイン武満徹らのクラシック音楽家や,音楽以外の他のジャンルの文化人たちからも絶賛を受け,「1960年代を後世に伝えるために,何かひとつだけタイムカプセルに入れるとすれば,このアルバムをおいてほかにない」とさえ言われる,“芸術作品”となったのである。ここに,若者のみの専売特許であり,クラシック音楽や絵画・文学など他の文化に比べると,一段低いもの(サブ=カルチャーカウンター=カルチャー)とみなされていたロック=アンド=ロールは,文化的に成熟・完成し,大人でも楽しめる新しい芸術となった。そしてこの頃から,ただ音楽にとどまらず,社会のありとあらゆる要素を含むようになったこの音楽は,もはやロック=アンド=ロールではなく,単に“ロック”と呼ばれるようになったのである。

6.ウッドストック

 このような新しい“ロック”を完成させ,ロックと若者が持つパワーを,世間に圧倒的迫力を持って認識させたのが,1969年8月ニュー=ヨーク郊外で40万人もの若者を動員した,ウッドストック=フェスティヴァルであった。サンタナカルロス=サンタナ率いるラテン=ロックバンド),ザ=フー,ジミ=ヘンドリックス(歯でギターを弾くなどの派手なパフォーマンスで人気があった黒人ギタリスト),ジョー=コッカー(ビートルズの『ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』の圧倒的なカヴァーで知られる),クロスビー=スティルス=ナッシュ&ヤング(CSN&Y),ジェファースン=エアプレイン,スライ=アンド=ファミリー=ストーンらのロック=ミュージシャンたちは,自分たちの言葉で,若者たちに,反戦・左翼的平等・友愛・ドラッグなどの,フラワー=ムーヴメント的世界を語った。そして大人たちは,そこに集った若者たちの力は,もはや無視も嘲笑もできないものであることを悟ったのである。ここにロックは,社会全体を包み込む一大勢力となった。


第5章−ロックの多様化と文化的成熟

1.“60年代”の終焉

 195年代末期に,プレスリーを始めとする多くのロック=ミュージシャンが,音楽シーンの第一線から去り,ロック不毛の時代が到来したことはすでに述べた。そしてまた,1960年代末期にも,同様の事態が起こったのである。

 まず,ローリング=ストーンズの創立メンバーの一人であるブライアン=ジョーンズが,自宅プールで溺死体として発見された。次いで70年になると,ジミ=ヘンドリックスが,自らの嘔吐物により窒息死し,また同年,ハスキー=ボイスの女性ロック=シンガーとして人気の高かったジャニス=ジョップリンが,心臓麻痺で急死した。これらすべては,ドラッグ(麻薬)が引き金となった事件であって,この頃から,ロック=スターとドラッグの関係は,切っても切れぬものになってきていた。

 さらに世間を震撼させたことは,マネージャー,ブライアン=エプスタインの死後(1967,これもやはり睡眠薬による死であり,自殺の可能性もあった),結束を弱めつつあったビートルズが,1970年,ポール=マッカートニーの脱退宣言によって,その8年の歴史に終止符を打ったことである。このようにして,ロック=ミュージックはその精神的支柱を失い,70年代には新しい展開を迎えることとなった。

2.ポップ=ミュージックの多様化

 1960年代というのは,世界がやっと戦後の混乱期から抜け出した頃であり,物資も現在ほど豊富ではなく,社会全体が現在よりもはるかに貧しかった時代である。そのような中では,人々の価値観は集約され,あるジャンルにおいて,他を圧倒するようなカリスマが登場しやすい。たとえば,政治の世界では,アメリカ大統領J=F=ケネディやキューバのカストロ首相,日本のスポーツ界で見ても,相撲の大鵬,野球の王・長嶋,プロレスの力道山など,ある世界で絶対的な権威を持つスターが登場した。しかし,70年代,社会全体が豊かになり,人々の生活にも余裕が出てくると,必然的に価値観の多様化が見られるようになった。当然,ロックもその例からは漏れなかった。ポピュラー音楽界には,1930年代のビング=クロスビー,40年代のフランク=シナトラ,50年代のエルヴィス=プレスリー,60年代のビートルズと,10年にひとり,他を圧倒するようなカリスマを持つスーパースターが現れるという伝説があった。しかし,人々の価値観が多様化し,個々人が自らの世界を持つようになった1970年代においては,そのようなスターは登場しなかったのである。実際,(音楽評論家の渋谷陽一が言うように,)「ビートルズのようなスターはこれからも現れることがあるかもしれないが,ビートルズを生んだ時代状況は二度と現れない」のである。

 ところで,70年代初期を代表するアーティストと言えば,まずカーペンターズエルトン=ジョンがあげられる。兄リチャードと妹カレンの,アメリカのカーペンター兄弟は,『イエスタデイ・ワンス・モア』などの巨大なヒット曲を連発し,イギリスのエルトン=ジョンは,その哲学的な歌詞と(作詞はバニー=トーピン),ピアノの弾き語りによる美しいメロディ,そしてそれに似合わぬ奇抜なファッションで,『君の歌は僕の歌』『ダニエル』などの曲を,次々とヒット=チャートの上位に送り込んだ。彼らが70年代を象徴するスターであった理由は,そのレコード=セールスの巨大さにある。60年代末期において,すでに,ビートルズのシングル『ヘイ・ジュード』やアルバム『アビー・ロード』,サイモンとガーファンクルのアルバム『明日に架ける橋』は,約100万枚という,当時では信じられないようなセールスをあげていたが,70年代になると,それは当たり前のことになってくるのだ。

 また,多様化したロックにはさまざまなジャンルが現れ,“ロック=アンド=ロール”は,まさに“ロック”の一分野となってしまった感がある。たとえば,アメリカでは『カントリー・ロード』のヒットでおなじみのジョン=デンバーが,“カントリー=ロック”を確立し,アメリカ南部からは,オールマン=ブラザース=バンドレナード=スキナードなど,土の香りのする“サザン=ロック”が台頭してきた。

 また,ブリティッシュ=ロックには,70年代を特徴づける3つの大きな動きがあった。

 その第一は,“ハード=ロック”の発達である。60年代末期から,エレキ=ギターやPAシステムの発達によって,大音量のロックの時代が始まりつつあったが,ついには,演奏が伴奏の域を越えて,それ自体がひとつの目的となり,ボーカルはひとつの“楽器”化するという,破壊的でゆがんだ音響による,攻撃的音楽を演奏するバンドが出現した。その発端は,エリック=クラプトンのいたクリーム,ザ=フー,キンクスなどであるが,このハード=ロックは,やがて,ブルースを基礎にロバート=プラントの金属的ボーカルとジミー=ペイジの速弾きギターで人気を集めた,レッド=ツェッペリンと,クラシックの素養を基礎に,リッチー=ブラックモアのギターとジョン=ロードのキーボードをフューチャーする様式美を確立した,ディープ=パープルによって完成してゆく。そのほかに,ジェフ=ベック=グループ(ボーカルはロッド=スチュアート)など,テクニカルな演奏を売り物にするグループの時代が訪れ,クラプトン・ペイジ・ベックは,“3大ロック=ギタリスト”とも呼ばれた。この流れは,70年代中期に,故フレディ=マーキュリー率いる,クイーンなどの“美的方向”と,歌舞伎役者のような奇怪なメイクと,ステージで火を吹くパフォーマンスで人気のあった,キッスなどの“悪魔的方向”へと,二分展開し,特に後者からは,黒い革に金属の鋲を打ちつけた衣装を特徴とするためにヘヴィ=メタルと呼ばれる,ジューダス=プリーストブラック=サバスなどのバンドが登場し,一部に熱狂的な人気を誇った。この流れはヘヴィ=メタルをメロディアスにした,ニュー=ジャージー出身のボン=ジョヴィメタル=ポップへと受け継がれ,80〜90年代になっても人気は高い。

 第二は,プログレッシヴ=ロックの登場である。ギターよりもキーボード(シンセサイザー)を中心とした音作りを行ない,クラシックやジャズの要素を多く取り入れ,非常にテクニカルな演奏をするロックをこう(略してプログレ)呼んだのだが,エマーソン=レイク&パーマーキング=クリムゾンピンク=フロイドイエスなどの演奏は,ときには1曲20〜30分にも及ぶ長大なもので,かつてのラジオで放送するための3分のポップスとはまったく異質の“芸術作品”になった。

 第3はグラム(グラマラス)=ロックである。“グラマラス=ロック(魅力的なロック)”とは,中性的な化粧や衣装をまとったデカダンス(頽廃)と紙一重の人口的な都会派のロックを指すが,実際その創始者でもあるデヴィッド=ボウイはイギリスの音楽雑誌の人気投票で,“男性歌手”部門と“女性歌手”部門の両方にチャートインしていたのである。グラム=ロックの代表としては,その他に故マーク=ボラン率いるT=レックスがあったが,“この化粧をしてロックを演奏する”というスタイルは,現在のロック=シーンにまで大きな影響を与えている。

 さらに70年代中期になると音楽界は錯綜し,さまざまなジャンルの音楽を融合したクロスオーヴァー=ミュージックという分野が成立してきた。これはAOR(“アダルト=オリエンテッド=ロック〈大人向けロック〉)とも呼ばれたが,ジャズの分野からロックに接近し,大幅に電気楽器を取り入れたマイルス=デイヴィスハーヴィ=ハンコックチック=コリアらの音楽はフュージョンと呼ばれた。他にもロックとソウルを結合したドゥービー=ブラザーズボズ=スキャッグス,アメリカの古き歌謡曲の伝統(ティン=パン=アレイ音楽)を受け継いだピアノ弾きのシンガー=ソングライター,ビリー=ジョエル,フォークやカントリーの味わいをロックで調理したイーグルズリンダ=ロンシュタットらのアーティストが登場した。また,“ウーマンリブ”の時代の洗礼を受けて,ロンシュタットのほか,カーリー=サイモンジョニ=ミッチェルスージー=クワトロオリヴィア=ニュートンジョンらの女性ロックスターが次々と現れたのもこの時代のことであった。

3.ロック=ビジネスの超巨大化

 前述したように,70年代初頭からロックビジネスは巨大化の一途をたどっていたが,70年代後半になるとその傾向は一層顕著になり,100万枚以上の売り上げを誇るアルバムが続出し,ロック=ビジネスはその頂点の時代を迎えた。実際,ピーター=フランプトンのライヴ『カムズ・アライヴ』,イーグルズの『ホテル・カリフォルニア』フリートウッド=マックの『噂』,映画『サタディ・ナイト・フィーヴァー』のサウンド=トラックなどの巨大な売り上げは,前時代までの常識をはるかに越えたものであった。

4.黒人音楽の新たな展開

 1970年代中期頃より,黒人音楽において,スタイルだけでなく,音楽そのものに大きな変化が起こった。それは,それまで基本として8ビートで演奏されていたロック(ソウル)が16ビート化されたということである。スライ&ファミリーストーンなどによるこの流れは,時を同じくして現れたディスコブームと結合し,ダンス音楽の新潮流を生み出した。その頂点に立つものは,(白人ではあるが)ビージーズなどのアーティストが中心となったジョン=トラボルタ主演の映画,『サタディ・ナイト・フィーヴァー』のサウンド=トラックであり,このアルバムの爆発的ヒットは,多くのミュージシャンをディスコ音楽へと向かわせたのである。

5.ロックと社会・政治問題の関係

 また,70年代から80年代にかけて顕著になってきたことに,ロックの“上位文化”昇格にともない,ロック=スターが政治や社会問題に関して積極的な発言を行うようになってきたということがある。実際,70年代には2度目の妻ヨーコ=オノとともに平和運動家として活躍したジョン=レノンも,60年代にはマネージャーから厳しくベトナム戦争に関する発言を禁止されており,65年に彼が不用意にも「ビートルズは今やキリストよりも人気者だ」と発言した時には,アメリカでビートルズ=ボイコット運動さえ起こったのである。しかし,積極的な発言を続けるボブ=ディランなどの運動は,やがてエスタブリッシュメントの世界でもとり上げられるようになってきて,ロック=スターたちは,社会・政治問題解決のための発言を積極的に繰り返すようになったのである。例を挙げれば,1971年,ジョージ=ハリスンは友人のミュージシャンに呼びかけ,バングラデッシュ難民救済コンサートを開催し,ポール=マッカートニーやジョン=レノンはイギリスのアイルランド政策に反対する曲を発表し,サイモンとガーファンクルはアメリカ民主党支援のためのコンサートを企画した。特にロックによる難民救済の流れは,国際連合とポール=マッカートニーが中心となって行なった70年代末期のカンボジア難民救済コンサートをへて,1984年頃からの東アフリカの大飢饉救済の運動へと発展していった。

 アイルランドのロック=バンド,ブームタウン=ラッツ(『哀愁のマンディ』のヒットで知られるが,それほどの大物グループではなかった)のリーダー,ボブ=ゲルドフは,イギリスのロック=ミュージシャンにエチオピア難民救済のためのチャリティレコードの制作を呼びかけ,ここに夢のオールスター=プロジェクト“バンド=エイド”(Band Aid)が結成され,彼らが歌った『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』はイギリス音楽界史上(当時)最大のヒット曲となった。この動きに触発されたアメリカのミュージシャンも,ハリー=ベラフォンテクインシー=ジョーンズライオネル=リッチーマイケル=ジャクソンらを中心に“USA〈ユナイテッド・サポート・オヴ・アーティスト〉・フォー・アフリカ”を結成し,『ウィー・アー・ザ・ワールド』の大ヒットを生んだ。やがてこの両者は結合し,85年にはアフリカ難民救済のため,ロンドンとアメリカのフィラデルフィアを結んで,延々12時間行われたコンサート,“ライヴ=エイド”が開催され,大成功を納めた。この結果,ボブ=ゲルドフは,一時その年のノーベル平和賞候補にも擬せられたのであった。ここに至って,ロックは社会をも動かす力を持つことが明らかになった。


第6章−ロックの変容〜パンクとニュー=ウェーヴ

1.原点への回帰〜反社会的ロックの復活

 1970年代中期までにすっかり“上位文化”化したロックに対し,もはや若者の代弁者たり得ないと反旗をひるがえし,再びロックに攻撃性や不良性・反社会性を与えたのがパンク=ロック(punk)であった。彼らは体に安全ピンを刺したり,頭髪も脱色やスキン=ヘッドなどの特異なファッションに身を包み,反社会的で過激な歌詞を,下手なのかうまいのか分からないような演奏・歌唱で表現する,新たなロックの一分野を生み出した。この動きは,70年代のニューヨーク=ドールズブロンディなどのニューヨークパンクから始まったが,当初はアンダーグラウンド的な性格を脱し得なかった。しかし,それがイギリスにわたり,1977年セックス=ピストルズが登場すると,その攻撃性・即興性は若者の絶大な支持を集め,一躍ロックシーンの主流に躍り出て来たのである。このようなロックの“サブ=カルチャー”回帰的な側面は,ジャマイカの民族音楽であるレゲエ(reggae)がロックに取り入れられるようになると,さらに強調されるようになった。そして,レゲエのスーパー=スター,ボブ=マーリーは,新時代の教祖的な性格を帯びてくるのである。

 一方イギリスではパンクのカウンター=パートとして,メロディアスなグループ=ポップスが流行していた。70年代中期から末期にかけて,“ビートルズの再来”といわれたベイ=シティ=ローラーズは日本でもアイドル的な人気を獲得し,他にも10ccなどのしゃれたセンスを持つポッポス=バンドが興隆した。この時代のイギリスは労働党政権下の,いわゆる“英国病”といわれた不況の時代であり,経済的混乱への代償として若者たちはベイ=シティ=ローラーズやパンクに葛藤のはけ口を求めたのである。

2.エレクトロニクス・テクノロジーの進歩

 1970年代も末期となると,デジタル技術を中心とするエレクトロニクス分野で大規模なテクノロジーの進化が見られ,ロックもその時代状況をあと追いし,ここにシンセサイザーを中心に据える無国籍音楽,テクノ=ポップが誕生した。テクノ=ポップとはコンピューターでプログラミングされたシンセサイザー=サウンドを中心に据え,ボーカルさえデジタル処理して無国籍化する音楽である。シンセサイザーを中心とする複雑な音楽は,すでに60年代後半から,プログレ=ミュージシャンや,日本の富田勲のようなクラシックの分野では一般的になっていたが,70年代末期,日本にイエロー=マジック=オーケストラ(YMO)が登場すると,“技術大国”日本のイメージともあいまって世界的な人気を獲得し,おそらくポピュラー音楽史上初の日本からの文化発信となった。(メンバーの一人であった坂本龍一は,その後も『ラスト=エンペラー』などの世界的な映画の音楽担当者として,世界に向けて文化発信を続けている。)

 また,いつの時代にもテーゼにはアンチ=テーゼが登場するが,80年代になるとパンク=ロックの否定形である,ニュー=ロマンティックスと呼ばれるファッショナブルな耽美派ロックが登場し,カルチャー=クラブデュラン=デュランスパンダー=バレエらが活躍した。彼らは,その後の大きな潮流とはならなかったものの,そのスタイルは多くの追随者を生んだ。


第7章−現代ロックの成立〜スーパー=スターの復活

1.ビデオの時代

 1980年中期から家庭用ビデオ=デッキが普及するに伴って,“映像栄えする”スターが,有料テレビのMTV(ミュージック=テレヴィジョン)を通して巨大な影響力を持ち始めた。この,MTVで放映されるビデオ=クリップ(プロモーション=ビデオ)を通じて最初に大成功を納めたのが,マイケル=ジャクソンであった。もともとはソウル=グループ,ジャクソン=ファイヴの子役スターであった彼は,躍進著しいMTVに着目し,本来ロック系のアーティストしか対象としていなかったMTVに強引に取り入り,アルバム『スリラー』収録曲のビデオを放映させ,その結果『スリラー』は2400万枚を売り上げるという史上最高のモンスター=アルバムとなり,マイケル=ジャクソンは時代の寵児となったのである。こうしてMTVを通じてスーパー=スターとなり,莫大なレコード=セールスを記録したミュージシャンには,他に『ライク・ア・ヴァージン』のセクシー=スター,マドンナ『パープル・レイン』プリンスがいる。

 一方“古き良き”アメリカンロックの伝統は,ブルース=スプリングスティーンの成功により守られた。


第8章−CDの登場

 1990年代,それまでのレコードに代わってCD(コンパクト=ディスク)が音楽発表の主体となると,再び時代は風雲急を告げてきた。

 それまでの45分程度の収録時間を持つLPレコードに代わって登場したCDは,70分以上の音楽を収録可能であり,音質的にも非常に優れたものであった。その結果,従来のレコードはCDによって駆逐され,その中でCD時代の新しいスターたちが続々と登場している。しかしまた,逆にかつてのLPがCDで安価に復刻され,新しいファンを集めるという現象も起こった。

 90年代の音楽状況は,デジタル処理された,ディスコのためのロック,ユーロ=ビートや,黒人音楽の新たな一形態,ビートの効いた音楽をバックに,早口でナレーションを行うという,ラップ(rap)などが人気を集めているが,その逆にアコースティックな音楽をライブで聞かせる“アンプラグド”のブームなど,原点回帰的な現象も見え始めている。


※ 参考文献(主なもののみ)

*『ロック−スーパースターの軌跡』 北中正和 講談社現代新書
    (この文章は主にこの本に基づいて記述されています)
*『ビートルズ事典』 香月利一 立風書房
*『資料 人物・新倫理』 令文社

ロックで学ぶ現代社会

ロックミュージックを利用した高等学校「現代社会」授業の実践例のご紹介です。

教科書 「ロックの歴史」

ロックミュージックを中心に古代から1980年代までの音楽の歴史を世界史教科書風に記述してみました。