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■ビートルズの歴史 第2章 ビートルマニア

2−ビートルマニア

1.ナンバー・ワン

 1962年10月2日発売のビートルズの公式デビュー曲『ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー』は,ブライアンがNEMSで大量発注したこともあって,イギリスのヒットチャートの17位まで上がった。しかし,なお不満であったジョージ=マーティンは,第2弾シングルとしてプロの作詞・作曲家による曲(『ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット』という曲で,後に別のグループによって大ヒット曲となる佳曲であった)を用意して来た。しかしビートルズはこの曲の発売を拒否し,自作の『プリーズ・プリーズ・ミー』を第2弾シングルとしてレコーディングした。そしてこの曲は,ついにヒットチャートの1位を獲得し,その後1963年になるとビートルズは『フロム・ミー・トゥ・ユー』『シー・ラヴズ・ユー』と立て続けにナンバー1ヒットを連発したのであった。

 彼らの出演するTV番組は50%の視聴率を記録し,同年11月には英国王室主催のバラエティ=ショーであるロイヤル・バラエティ・ショーへ出演することになった。ここに,ビートルズはデビュー1年にして,イギリスでは完全に認知されたのである。ちなみに,このときのジョンの発言「安い席の皆さんは,拍手をしてください。それ以外の方々は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」は,伝統ある王室や上流階級の人々を徹底的に皮肉った庶民感覚の代弁者として,マスコミには好意的に取り上げられた。そしてこの頃から大人たちの冷たい視線を受けながらも,彼ら4人の行くところ常に若い女性たちが絶叫しながらあとを追い,コンサートは絶叫の渦で音楽も聞き取れないという状態が生まれた。“ビートルマニア”(ビートルズ狂)というこのヒステリアは,やがてリヴァプールからイギリス全土へ,そしてアメリカへ,世界へと広がっていったのである。

2.アメリカ征服

 このビートルマニアの情報に接しても,アメリカの音楽業界は極めて冷ややかであった。いまだかつて,イギリスのポピュラー音楽がアメリカの音楽界で重要な地位を占めたことは一度もなかったからである。アメリカでも『ラヴ・ミー・ドゥ』や『プリーズ・プリーズ・ミー』はかろうじてマイナー=レーベルから発売されてはいたが,ほとんど話題になることもなかった。しかし,ブライアン=エプスタインはビートルズのアメリカ上陸作戦を注意深く計画し,強力な宣伝作戦をとった。その結果,1964年,ビートルズは1万人の少女たちの絶叫の中ニュー=ヨークに降り立ったのである。そして,『抱きしめたい』は空前のヒットとなり,彼らが出演したテレビ=バラエティ=ショウ「エド=サリヴァン=ショウ」には7300万人が注目し,72%という驚異的な視聴率を残した。全米の青少年がテレビにくぎづけになったため,放映時間中にはニュー=ヨークで1件の重大な青少年犯罪も起こらなかったという。ビートルズはついにアメリカを征服した。さらに毎年行われる公演旅行においてビートルズは次々と観客動員記録を塗り替え,レコード売り上げも史上空前の規模に達した。音楽雑誌「ビルボード」1964年4月4日号では,ヒットチャートの上位5曲を彼らの曲が独占していたのである。同年,彼らの初の主演映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(A Hard Day's Night)が封切られると,世界中の映画館でこの一風変わった白黒映画のスクリーンには少女たちの黄色い声援が飛び,中には朝から映画館に陣取って終了時間まで粘るファンも数多く,上映終了後には記念に持って帰ろうとする彼女たちによって,スクリーンはずたずたに切り刻まれた。(彼らは1965年にも主演映画第2弾『ヘルプ! 4人はアイドル』(カラー)を世に問うが,この2作の映画において特にリンゴは映画俳優としての才能を顕在化させた。)

 こうして彼らは,世界で最も有名な“すてきな4人組”(fab four) となった。

 この勢いを見た当時のイギリス政府は(労働党政権,首相であったのは,1995年に亡くなったハロルド=ウィルソン),"外貨獲得"の功により,1965年彼らにMBE勲章(Members of British Empire, イギリスの叙勲システムの中では最も下級の勲章であって,それまでは主に軍人に対して与えられていた)を授与した。イギリスではもはやビートルズは“名士”であった。

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