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■ビートルズの歴史 第5章 宴のあと

5−宴のあと

1.ジョン=オノ=レノン

 ジョンは1969年のヨーコとの結婚後,自らの名前を“ジョン=ウィンストン=レノン”から“ジョン=オノ=レノン”に改名し,新しい人間としての歩みをはじめた。

 彼は解散前から,ヨーコや仲間のミュージシャンとともに“プラスティック=オノ=バンド”という即席グループを結成し独自の音楽活動に励んでおり,『インスタント・カーマ』『イマジン』『真夜中をつっ走れ』(エルトン=ジョンと共演)などのヒット曲を生んだが,1975年にヨーコとの間にようやく授かった息子ショーンの養育を自ら引き受けるために“主夫(househusband)”を宣言し,事実上芸能界から引退した。

 しかし,1980年ショーンが5歳になったのをきっかけに再び音楽界にカムバックし,ヨーコとともにアルバム『ダブル・ファンタジー』を制作し,そこからシングル『(ジャスト・ライク)スターティング・オヴァー』が大ヒットした。

 しかし,その直後の12月8日,ジョン=レノンは彼の熱狂的なファンであったといわれる精神異常者,マーク=デイヴィッド=チャップマンによりニュー=ヨークの路上で射殺された。(真偽のほどは当然ながら明らかではないが,CIAによってマインド=コントロールされた犯人によるとする,陰謀説もある。)

2.ポール=マッカートニー

 ポールはいち早くビートルズ脱退を宣言するとソロ活動に入り,スパイ映画『007/死ぬのは奴らだ』の音楽を担当などしていたが,やがて妻リンダなどとともに自らのバンド“ウィングズ”を結成した。

 ウィングズは当初大学の講堂などでゲリラ的にコンサートを行うという活動を通して,ポールが理想とする「観衆の吐息が感じられる」バンド活動を目指したが,やがて当初の理想を失っていった。

 1973年の傑作アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』以降数枚のアルバムを発表し,国連のワルトハイム事務総長の要請を受けて,81年“カンボジア難民救済のための”オールスター・コンサートなどを企画したが,激しく繰り返されるメンバーチェンジの中でウィングズは解散状態になり,1980年ソロとなって初めての来日の折に,成田空港で大麻不法所持で逮捕されるという事件のショックもあって,彼は再びソロ活動に戻った。

 82年のソロ・アルバム『タッグ・オヴ・ウォー』と83年の『パイプス・オヴ・ピース』では久々にジョージ=マーティンをプロデューサーに迎え,前者では人種問題を歌ったスティーヴィー=ワンダーとのデュエット『エボニー・アンド・アイヴォリー』,後者では,まだあれほどビッグになる直前のマイケル=ジャクソンと組んで『セイ・セイ・セイ』の大ヒットを生んだ。

その後の彼は,大ヒット曲こそ出ないが,84〜85年ころの,アフリカ東部の大飢饉に際して,アイルランドのロックスターボブ=ゲルドフが提唱した難民救済オールスター・レコード『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』への参加,及びそのコンサート版である“ライヴ・エイド”への出演(このイギリスとアメリカで同時に開催された大コンサートにおいて,彼はイギリス側の“とり”として登場し,ピアノの弾き語りで『レット・イット・ビー』を歌った)など,社会派の活動を続け,最近では“フレンド・オヴ・ジ・アース”という環境保護団体との連係において,環境保護問題や動物実験反対運動などに取り組んでいる。

 また,故郷リヴァプール市の要請に応じてクラシック曲『リヴァプール・オラトリオ』を作曲するなど,年齢とともにイギリスの名士となりつつある。そして,その集大成として,1997年エリザベス女王によって「貴族」に列せられたのである。

3.ジョージ=ハリスン

 ジョージはビートルズ時代からジョンとポールという2大天才の蔭に隠れて目立たない存在で,“クワイエット・ビートル”(静かなビートル)というニックネームをいただいていた。

 ビートルズ初期から佳曲を残してはいるものの,せいぜい1アルバム2曲であり,影は薄かった。

 しかし,中〜後期になると,インド音楽への接近など独自の境地に達し,末期になると『サムシング』(69年)の大ヒットを持った。

 解散後は親友のボブ=ディランなどを誘って,“バングラデシュの難民救済コンサート”を主催するなどの社会的活動も行った。

 音楽に関しては,ビートルズ時代に書きためながらも日の目を見なかった曲を集めて3枚組LP(CDでは2枚組)『オール・シングズ・マスト・パス』を発表し絶賛された。そして,そこからカットされたシングル『マイ・スウィート・ロード』は世界中で大ヒットした。

 しかし,この曲は1963年のシフォンズのヒット曲『ヒーズ・ソー・ファイン』の盗作であると訴えられ,敗訴し,その栄光のキャリアに傷をつけてしまった。

 その後,自らのレーベル“ダーク=ホース”を設立し,いくつかの小ヒットを生んだが,大ヒット曲には恵まれず,不遇のときを送っていた。

 しかし,87年のアルバム『クラウド・ナイン』でカムバックを果たし,『セット・オン・ユー』の大ヒットを生んだ。

 また,元エレクトリック=ライト=オーケストラのジェフ=リンやボブ=ディランらと組み“トラヴェリング=ウェルベリーズ”というプロジェクト=バンドを結成し,精力的な活動を行っていたが,2001年癌のため死去した

4.リンゴ=スター

 リンゴは,ビートルズ時代の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』と『ヘルプ!4人はアイドル』の2本の主演映画で映画俳優としての評価を確立し,ビートルズ時代から単独で映画へ出演してもいた。

 音楽に関しても,カントリー=ミュージュックを起点に幅広い人脈を駆使して"大衆歌手"の道を歩み,『明日への願い』(71年),『ユア・シックスティーン』(73年),『オンリー・ユー』(74年)などの大ヒットを生んでいる。

 その後,アルコール中毒のせいもあって音楽活動はぱっとしなかったが,90年代になると息子のザックや旧友たちを集めたバンド“リンゴ=スター&ヒズ=オールスターズ”を率いて来日も果たした。

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