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■ビートルズの歴史 第3章 新しい"ロック"の創造

3−新しい"ロック"の創造

1.ステージからスタジオへ

 デビュー直後はオールディズを含めてストレートなロック=アンド=ロールを演奏していた彼らであるが,1965年アルバム『ヘルプ!』を発表するころから『イエスタディ』におけるクラシックの弦楽4重奏団の導入・『悲しみはぶっとばせ』の詩的内省など多少作風に変化が見られるようになり,同年のアルバム『ラバー・ソウル』では,哲学的な詞,全曲オリジナルによる複雑な曲作り,ジョージによるインド音楽への接近(『ノーウェジアン・ウッド』では,インドの民族楽器シタールが使用された),ドラッグ(麻薬)使用体験にもとづく幻想性など,それまでのロック=アンド=ロールとはまったく違うアプローチが見られるようになった。そして66年のアルバム『リヴォル ヴァー』は,エレクトロニクス技術の進歩を受けて,電子音楽への接近(『トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ』)や,ジャズ(『ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ』)やクラッシックの楽器使用(『エリナ・リグビー』)など,ロック=アンド=ロールの概念をはるかに越えた音楽が追求され,それらの曲はもはやステージでの再現は不可能になりつつあった。

 この頃から,彼らは叫ぶばかりで音楽を聴こうとしないファンの姿と,厳しい警備で(66年の日本公演が特徴的であったが)街さえも自由に歩けない監禁状態に耐えかね,しだいに公演旅行への情熱を失っていた。そして結局,66年のフィリピン公演で生命の危機を味わったあと,サン=フランシスコを最後に公演旅行を中止し,彼らのステージでのライブ=パフォーマンスは,2度と復活することはなかった。

 彼らはステージを下りスタジオにこもった。そして1967年6月,ロックを芸術にまで昇華させた傑作アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発表されたのである。このアルバムからは1枚のシングル=レコードも発売されず,曲と曲との間に通常あるはずの空白はなく(そのため,このアルバムは全体が一続きの曲であるとみなされて,シングル=チャートにもチャートインした),1枚のアルバムでひとつの概念と制作意図を持って作成された完成品という,いわゆる“コンセプト=アルバム”“トータル=アルバム”の概念を完成させた。このアルバムは,クラッシックを含む音楽界以外からもあらゆる分野の人々に絶賛され,ビートルズはここに完全に“不良のロックンローラー”から“文化人”に変身したのである。

 また,同年同月,彼らは世界初の多国間同時衛星テレビ中継番組「アワ・ワールド」にイギリス代表として出演し,『愛こそはすべて』を演奏し,世界中に“愛さえあればできないことはない”と呼びかけた。まさに彼らは世界のオピニオン=リーダーとなった。

 それに伴って彼らのファッションや発言にも変化が見られるようになってきた。おそろいのユニフォームを着て満面に笑みをたたえた姿は次第に見られなくなり,個性的なファッションに身を包み,ひげをたくわえ,哲学的な表情をたたえた,新たな4人が見受けられるようになってきた。ヴェトナム反戦に関する発言など政治的言動も目につくようになり,ジョンの“ビートルズはキリストよりも人気者”発言(66年3月)が物議をかもしたのもこの頃のことであった。

2.マハリシとブライアンの死

 ジョージはアルバム『ヘルプ!』のころから,インド音楽,特にシタールというインドの民族楽器にひかれていたが,やがてさらに内なるインド思想に啓発され,超越瞑想を説くインド人行者マハリシ=マヘシュ=ヨギの講演会に参加するようになっていた。ジョージは他の3人を誘い67年8月ウェールズのバンガーで行われたマハリシの講演・瞑想会に参加したが,その最中にブライアン=エプスタイン死去の衝撃的なニュースが飛び込んで来た。睡眠薬中毒であった。ブライアンは自分が育てたビートルズが自分の手の届かないところへいってしまうことに深い焦燥感を覚え,ノイローゼから睡眠薬に頼るようになっていたが,自殺であるという意見もあった。4人を束ねていた鎖は切り放たれた。その後,ビートルズの面々はさらに高度なマハリシの講義を受けるためにインドへと向かうが(68年2月),結局彼らはマハリシ尊師(グル)の俗物性を見てとり(彼は収入の10分の1と言う高額なお布施を要求し,随行メンバーの女性に“性的興味”を示したと言う),彼とたもとを分かった。しかし,ビートルズ内部の混乱は誰の目にも明らかになってきた。

3.初めての“失敗”

 ブライアンなきあとのビートルズは,糸の切れた凧のようになってしまった。何とか状況を打開しようと,ポールのアイデアでテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』が制作されたが(イギリスでの放映は,67年12月26日で,75%という驚異的な視聴率を獲得した),その無意味で難解な内容に批評家たちは罵声を浴びせた。現在の視点から見れば,史上初のMTVビデオ=クリップ集とも言えるこの作品は,少し時代よりも先を行き過ぎていたのである。しかし,その後ビートルズは自分たちで自分たちをマネージメントしプロモートする会社アップル社を設立し(68年),アップル最初のシングル『ヘイ・ジュード』(同年)の大ヒットや,余り関係はしていないが,アニメーション映画『イエロー・サブマリン』の好評などで(同年)何とか評価を持ち直した。

 しかしそんな中,1968年に発表されたアルバム『ザ=ビートルズ』(いわゆる『ホワイト・アルバム』)は,佳曲を多く含みながらも全体的に非常に散漫な印象を与えた。4人のメンバーは,それぞれ勝手気ままに自分が作った曲を自分が連れて来たバック=ミュージシャンとレコーディングを行うようになり,かつてのように4人まとまってひとつの曲に取り組む姿は,ほとんど見られなくなった。(しかし,ジョージの曲『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』におけるエリック=クラプトンのギターソロなどは絶賛された。)そして,スタジオにはその不協和音をさらに拡大するひとつの要素が飛び込んで来た。ヨーコ=オノである。

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