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■ビートルズの歴史 第1章 リヴァプールからロンドンへ

1−リヴァプールからロンドンへ

1.リヴァプール

 イングランド北西部にある港町リヴァプールは,18世紀の産業革命時には商業都市・貿易港として繁栄し,大英帝国の発展を支えてきた。しかし第2次世界大戦中ドイツの空襲で破壊され,大戦以降順調に復興するロンドンとは裏腹にこれといった話題もない平凡な一地方都市へと堕していた。当然,その後この街が若者音楽のメッカになることを予想しえた者など誰一人としていなかった。

 1950年代後半,ロンドンを中心に流行していたのは,“スキッフル”と呼ばれる素人くさい即興音楽であった。演奏には大した楽器も必要とせず,時にはギターとドラム代わりの段ボール箱,パーカッション代わりの洗濯板などの伴奏で歌うへたくそな音楽,それがスキッフルであった。しかし,誰でも演奏できるその手軽さが受け,ロニー=ドネガンが『ロック・アイランド・ライン』や『ジャック・オヴ・ダイヤモンド』などの大ヒットを連発すると,スキッフルはまたたく間に若者の音楽となった。しかしまた,リヴァプールは大西洋に面し,アメリカからやって来た船がイングランドで最初に寄港する町でもあった。そのためロンドンがスキッフルに夢中になっているときも,リヴァ プールの若者たちは,水夫たちが持ち込んだアメリカの最新のリズム=アンド=ブルースロック=アンド=ロールのレコードを食いいるように聞いていたのである。

 50年代末期になると,リヴァプールの若者たちはエルヴィス=プレスリーの成功に刺激され,多くのロック=アンド=ロール=バンドを結成していた。そして,その中のひとつがやがて,“ザ=ビートルズ"と呼ばれるようになるのである。もとより,イギリスは現在にまで続く厳格な“階級社会”であり,“地主・貴族階級”と資本家・医師・弁護士などの“中産階級”と“労働者階級”の間には厳然とした差があった。同じ町の中でも,住む場所も違えば仕事場のある場所も通う学校も違い,それらの間の生活水準には雲泥の差があり,相互の移動は非常に難しかった。そのため,労働者階級の若者が"成り上がる"ためには芸能界に入るしかないというのが実情でもあった。

2.少年ジョン=レノン

 1940年,ナチス=ドイツの激しい空襲の最中,リヴァプールの産院で一人の男の子が誕生した。両親はその子供を,大戦の勝利を願って,当時の英国首相であったウィンストン=チャーチルの名をとり,ジョン=ウィンストン=レノンと名づけた。しかし,船乗りであったジョンの父はやがて行方不明となり,生活力のなかった母ジュリアは,ジョンを姉のミミに預けることとなった。(しかし,母は,ジョンが18歳のとき,彼の目と鼻の先で自動車に轢き殺されてしまった。)

 こうして両親と別れ別れになった彼は,やがて町でも悪名高い不良少年に成長していった。しかしジョンは,やがてその寂しさをロック=アンド=ロールにぶつけるようになったのである。リヴァプールのクォリー=バンク中学校に在籍していたとき,彼はザ=クォリーメンというスキッフル/ロック=アンド=ロール=バンドを結成し,まだ稚拙な演奏ながらアメリカのロック=アンド=ロールのコピーに精を出していた。

 そんな1956年のある日,教会のパーティで演奏していたクォリーメンのもとを一人の少年が訪れた。演奏終了後,共通の友人からその少年を紹介されたジョンは非常に驚いた。その,大きな目玉と甘いマスクをしたサウスポーのハンサムな少年は,クォリーメンのメンバーの誰一人としてできなかったギターのチューニングを行うことができ,そのギターでアメリカのロック=アンド=ロールをいとも簡単に弾きこなしたのである。その少年の名こそジェイムズ=ポール=マッカートニーであった。ジョンはクォリーメンにおける自分の指導的な地位が揺らぐことを恐れて一瞬ポールを誘うことをためらったが,最終的にポールにバンド参加を呼びかけた。こうして,20世紀最大の音楽家チームのひとつ,レノン=マッカートニーのコンビが誕生したのである。

 決して頭の悪くなかったジョンであるが,学校生活に興味を見出せなかったため成績は最悪であり,とにかく絵の才能だけを見込まれて美術学校へ進学することになった。そこで出会ったのが,前衛絵画で将来を嘱望されていた若者,ステュアート(ステュ)=サトクリフであった。

3.少年ポール=マッカートニー

 1942年,バンドマンとして活躍したこともある綿花セールスマンの父と,看護師であった母(名前はメアリー,ポールが16歳のとき乳ガンで死去,彼女は『レット・イット・ビー』の中に聖母マリアの姿で現れる)との間に,長男ジェイムズ=ポール=マッカートニーが誕生した。決して裕福な家庭ではなかったが,特に母の看護師としての収入は,弟のマイクを含めて家族4人を養うのには十分であり,ポールは両親の愛情に育まれてすくすくと成長していった。幼い頃から利発で学校の成績も優秀であった彼であるが,性格は複雑で,弟と一緒に両親に叱られると,食ってかかろうとするマイクを押さえて,「とりあえず頭を下げとけばいいんだよ」とその場を取り繕い,あとで両親の寝室のカーテンを少し破ってうっぷんを晴らす,というようなエピソードさえ伝えられている。

 やがて,リヴァプールの名門校リヴァプール=インスティテュートに進学して将来を嘱望されていた彼であったが,そんな普通の生活も母の死とともに転機を迎えた。彼は母メアリーの死後寂しさを紛らわすためギターに熱中し,ラジオから聞こえてくるアメリカのロック=アンド=ロールのカバーに夢中になっていた。そんなとき,友人にクォリーメンの出演するパーティに誘われたのであった。

4.少年ジョージ=ハリスン

 ジョージは,ビートルズのメンバーの中で唯一,そう豊かではなかったが両親ともに健在で平和な家庭で育った。母はジョージの音楽活動に好意的であり,憑かれたようにギターに熱中する彼にさまざまな助言や援助を与えていた。ポールの家とは近所だったために2人は顔なじみではあり,彼もまたポールと同じリヴァプール=インスティテュートに入学したが,1943年生まれの彼はポールからは子供扱いをされていた。しかし,ポールのクォリーメン加入とともにジョージもバンドに出入りするようになり,やがてメンバーの一員となった。

5.ステュアート=サトクリフ

 美術学校でジョンの親友であったのが,将来を嘱望されていた前衛画家ステュアート(ステュ)=サトクリフであった。彼はロック=アンド=ロールにはそれほど興味がなかったが,ジョンに誘われ,展覧会で得た賞金をつぎ込みベース=ギターを手に入れ,ジョンのバンドに参加することになった。

6.シルヴァー=ビートルズ

 1960年ころまでにバンドのメンバーの離合集散によりクォリーメンは解散状態となった。そして,ジョン(ギター・ヴォーカル)・ポール(ギター・ヴォーカル)・ジョージ(ギター)・ステュ(ベース)は,そのつどさまざまなドラマーを加えて,さまざまな名前を使い,セミ=プロ=バンドとして活動し始めていた。彼らはわずかなギャラでクラブに出演したり,パーティのバックバンドなどをつとめていたが,そのようなクラブのひとつにジャカランタ=クラブがあり,そこの経営者の息子が高価なドラムセットを持っていた。この,そこそこドラムがたたけるハンサムな青年ピート=ベストは,正式に彼らのドラマーとなり,このころからバンド名も“ジョニー=アンド=ザ=ムーンドッグズ”“ザ=シルヴァー=ビートルズ”,そして“beat”と“beetle”(かぶと虫)のかけことばから,“ザ=ビートルズ(The Beatles) ”と変わっていった。

7.ドイツ・ハンブルク

 ピートを加えて本格的な活動を開始したビートルズではあるが,活動場所はあいかわらずリヴァプールのクラブなどであった。ところが,そこにアラン=ウィリアムズという急ごしらえの興業主が現れた。彼はヨーロッパ最大の歓楽街のひとつ,ドイツのハンブルクのクラブで最近イギリスのバンドが受けているという情報を手にし,そろそろリヴァプールの人気者になりつつあったビートルズをハンブルクへ送り込むことを思いついたのである。こうして1960年,彼らは初の“海外公演”を果たすことになったのだが,実情は,狭い不潔な部屋に押し込められて,一日10時間近いステージを覚醒剤の力を借りてこなすという,殺人的なスケジュールのパフォーマンスを強いられたのである。しかし,彼らの演奏力やレパートリーが,この時期に飛躍的に発展したことは疑う余地がない。

 ところで,当時このイギリスのバンドの人気に目をつけたドイツのポリドール=レコード社は,やはりクラブから発掘した歌手トニー=シェリダンのバックにビートルズを使うことを思いついた。そしてビートルズ初のレコーディング,イギリス民謡のロック版『マイ・ボニー』が制作されたのである。

 ビートルズが出演するクラブは,荒くれ労働者や売春婦のたむろする非常に猥雑な場所であったが,あるとき,そのクラブの前を通りかかった一人のドイツ人青年クラウス=フォアマンは,中から聞こえてくる不思議な音楽に心騒ぎ,意を決してドアを押した。彼はその瞬間からビートルズの音楽に心奪われ,それから友人たちを誘い毎日のようにクラブに通ってくるようになった。そして,ステージの真下には,連日,酒に酔い,売春婦をからかう大勢の酔客とは明らかに違う,当時“イクジス”(実存主義者)と呼ばれたインテリ青年たちの一群が,食いいるように演奏を見つめている姿が見られるようになった。その中の一人が,クラウスの恋人であった女流写真家のアストリッド=キルヒャーであった。

 アストリッドは“ハーフ=シャドウ”と呼ばれる人物の側面から光を当てる手法を得意とする女流写真家であり(後のビートルズのアルバム,『ウィズ・ザ・ビートルズ』(1963)のジャケットもこの手法である),当時はクラウス=フォアマンの恋人であった。しかし,彼女はビートルズのステージに通いつめるうち,メンバーの中でもっとも芸術家肌であったステュと恋に落ちたのである。ともあれ,ビートルズはこの“イクジス”たちの影響を受け,髪をリーゼントから“マッシュルーム=カット”に変え,不良少年の顔にも哲学的な表情を見せるようになってきた。

 この頃,ジョージの年令詐称事件が明るみに出て(彼はまだ17歳であり,本来ドイツで労働することはできなかった),一時彼らはリヴァプールに引き上げることになった。しかし,ステュはロックよりもアストリッドへの愛を選び,そのままハンブルクへ残り,美術学校へ通うことになった。(その結果,ベースはポールが担当することになった)しかし,このとき悲劇が起こった。彼はかつてファン同士のけんかに巻き込まれ,頭を殴打されたときの傷がもとで,ビートルズがハンブルクへ戻ってくる前日,わずか21歳の若さで急死してしまったのである。(この頃の様子は1994年の映画『バック・ビート』に詳しい)

8.ブライアン=エプスタイン

 リヴァプールで大きな家具店を経営するユダヤ人の両親のもとに生まれたブライアン=エプスタインは,演劇に興味を持つ創造的なインテリ青年であった。しかし,ホモ=セクシャルの性癖のために(当時は,同性愛行為は違法行為であった),暗い青春を送っており,両親の家具屋を手伝ってもみたが満足できない生活を続けていた。しかし,彼は両親から家具屋とともに経営していたレコード部門(NEMS:ネムズ)の経営を任せられると,その芸術的センスを遺憾なく発揮し,NEMSをイングランド北部最大級規模のレコード店に成長させていった。NEMSは"どんなレコードも手に入る"ことをうたい文句にしていたが,1961年10月一人の青年が「ビートルズの『マイ・ボニー』をくれ」と言ってやって来たときにはブライアンは当惑してしまった。“ビートルズ”なんてまったく聞いたことがないグループだったのである。しかし彼はそれがリヴァプールのグループであることを調べ出し,彼らが出演しているというキャバーン=クラブへと足を運んでみた。ブライアンはそれまでロック=アンド=ロールになどまったく興味のなかったインテリであったが,そのときビートルズの演奏に打ちのめされた。(特にジョンに同性愛的興味を持ったといわれる。)そして,芸能界に関する知識などほとんどなかったのにもかかわらず,突然ビートルズのマネージャーになりたいと申し出たのである。

 マネージャーに就任したブライアンは,一マネージャーと言うには度を越した愛情を持ってビートルズの売り込みに奔走した。彼は革ジャンと細身のジーンズという“不良のイメージ”からビートルズを脱却させ,スーツを着せ,ネクタイを締めさせ,“万人向け”のイメージを作ることにした。とにかく,ここにエプスタインとビートルズの中央進出のための2人3脚が始まったのだ。

 1962年1月,エプスタインは最初デモ=テープをデッカ=レコードに持ち込んだ。しかし,デッカはビートルズを“時代おくれである”という理由で契約しなかった。(ギターをフューチャーしたクリフ=リチャード&シャドウズのようなバンドは,そろそろ人気が低下していた。)そして,失意の彼が2度目にテープを持ち込んだのが,イギリス最大のレコード会社EMIレコードであった。当時,クラッシックやドタバタ喜劇映画の音楽を制作していたEMIのレコード=プロデューサージョージ=マーティンは,ブライアンと対応したエンジニアからおもしろいバンドがあると聞き,ビートルズのオーデションを行うことを決定した。それほどの確信があったわけではないが悪くはないと思ったマーティンは,ビートルズとのレコーディング契約を決定し,デビュー曲 『ラヴ・ミー・ドゥ』が制作されることになった。しかし,ジョン・ポール・ジョージの3人は以前からドラマーとしての才能に疑問を持ち,考え方も他の3人とは大きく異っていたピート=ベストの解雇をブライアンに要求した。代員として迎えられたのは,ビートルズと同じ時期にハンブルクで活躍していたバンドである,ロリー=ストーム&ハリケーンズのドラマーリチャード=スターキー,指輪(リング)をいっぱいはめていたことから“リンゴ=スター”と呼ばれる,小柄で陽気な人物であった。このメンバーチェンジはリヴァプール(ここは音楽ファンたちには,マージー河畔=マージーサイドと呼ばれていた)の古くからのビートルズファンの間に大きな波紋を呼んだが,とりあえず,ここにいよいよ我々が知るところの“ザ=ビートルズ”が誕生したのである。

9.少年リチャード=スターキー

 “リンゴ”ことリチャード=スターキーは,ジョンと同じ1940年に誕生し,リヴァプールでも最も貧しい地区で育った。幼い頃両親が離婚し,母と継父に育てられた彼は家庭的・経済的に恵まれないだけではなく,非常に体が弱く,長い間入院生活を送ったために小学校にもほとんど通っていない。しかし,理解ある継父にドラムセットを買い与えられるとドラムの腕はめきめき上達し,その陽気なパフォーマンスでリヴァプールとハンブルクではまさに“スター”となっていた。そして,ビートルズ加入を持ちかけられたとき,収入が多いのならと承諾の返事をかえしたのである。こうしてザ=ビートルズの快進撃が始まった。

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