1960年代前半度重なるワールド・ツアーによって全世界を熱狂の渦に巻き込んだビートルズではあったが,やがてファンの喚声によって演奏している自分たちにさえ自分の演奏が聞こえないという劣悪なコンサート環境と,旅先での籠の鳥状態・度重なるトラブル(66年東京公演の直後に行われたフィリピン公演においては,暴徒化した民衆により生命の危険さえ味わっている)等に耐えかね,66年のロス=アンジェルス,キャンドル=スティック・スタジアム(ちなみにロス=アンジェルス・ドジャースのフランチャイズであるこの球場では,かつて野茂英雄投手が活躍をしていた!)公演を最後に公演活動を停止した。 彼らはレコーディング・バンドとして成長し,あのロック史上の最高傑作"Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band"を作成したのであるが,メンバーたち,なかんずくポールには,熱狂する聴衆の前で行うライブ・パフォーマンスの興奮が忘れがたく,彼は,豪華客船の船上・アフリカの古代ローマ劇場の遺跡等で限定された聴衆を前に演奏を行い,それを撮影した映画を世界中に配給しようというアイデアを提案した。しかし,他のメンバーは乗り気ではなく,これらの計画は実現されることはなかった。しかし,ついにポールは「オーバーダビングを廃したライブなレコーディング」を「映画スタジオでの無人ライブ・ドキュメンタリー」という形式で映画化するという線で他のメンバーを押し切り,1969年1月2日ロンドン郊外のトゥイッケンハイム映画スタジオで,この,いわゆる“ゲット・バック・セッション”の撮影が開始された。
しかし,この撮影は開始直後から数々の暗礁に乗り上げた。その最大のものは,まずこの映画が白昼撮影されたと言うことである。ビートルズはロック・ミュージシャンの常として全くの夜型人間であり,レコーディングはもっぱら深夜に行われていた。しかし,この映画ではスタッフの都合もあって日中撮影を挙行せざるを得ず,ビートルズは毎朝眠い目をこすりつつ,閑散たるだだっ広い映画スタジオの中,寒さに震えながらレコーディングを行わなければならなかった。
さらにジョン以外のメンバーに巨大なストレスを感じさせることとなったのが,小野洋子の存在である。日本人前衛芸術家のヨーコは,この年の3月ジョンと正式に結婚するが,彼女は「ホワイト・アルバム」のレコーディングのころからメンバーだけの閉じられた空間であったレコーディング・スタジオに自由に出入りするようになり,特にポールの冷たい視線を浴びるようになっていた。この映画の中での印象的な黒い瞳が,片時たりともジョンのそばを離れようとしない姿が見受けられる。
また,このようなぎすぎすしたムードの中,何とかグループをまとめ上げ映画を完成させようとするポールは,非常に独裁的になり,他のメンバーとの軋轢を生み,見るものに“解散間近”の印象を与えている。(たとえば,彼はかなり退屈な自作曲"Maxwell's Silver Hammer"のリハーサルを何十回となくメンバーに要求し,また,"I've Got A Feeling"のギタープレイに関してポールはジョージにこと細かく注文を付け,ついには口論となるシーンが見られる。)
このようにトラブル続きのレコーディングではあったが,1月22日からはビートルズの設立した会社アップル本社ビル地下スタジオにところを移し,次第にペースがあがってきた。そして,ここに強い味方が現れた。ハンブルク時代からのビートルズの親友で,テクニックあふれる黒人ピアニストビリー=プレストンがレコーディング・セッションに加わったのである。
"Get Back"や"Don't Let Me Down"の巧みなピアノ・ソロで知られる彼は,関係が悪化したビートルズにとって非常に有効な潤滑油となり,彼らはアマチュア時代から親しんだ多くの曲のセッションをきわめて和気藹々と行っている。
そしてこの映画の白眉といえるのが,1月30日に行われたビートルズ“最後の”ライブ・パフォーマンス,“ルーフ・トップ・セッション”のシーンであろう。アップルビル屋上に即席のステージを用意したビートルズは,昼休みのロンドン市民たちに対し,寒風吹きすさぶ中,大音量で"Get Back"や"Don't Let Me Down"などの曲を演奏したのである。この“コンサート”は結局警察当局の介入を受けて途中で中止されるが,ここにはやがて解散するとは思えない圧倒的なバンドとしての統一感が感じられる。この“ルーフ・トップ・セッション”のシーンは,古今東西の音楽映画の中でも最高のハイライトシーンと言うことができるのではないだろうか。
この映画全体を通して言える印象は,解散間近の断末魔の中で苦しむビートルズの満身創痍の姿である。しかしその中で,あの名曲"Let It Be"や"The Long And Winding Road"が制作されたことはまさに天才の生み出す奇跡と言うべきであろうか。しかしそうはいっても,この映画は印象深いシーンに満ちている。特にジョンとポールが1本のマイクを挟んで歌い上げる"Two Of Us"のシーンは涙もの。また,リンゴの"Octopus's Garden"の作曲にジョージが手を貸してあげるシーンや,"I Me Mine"をバックにジョンとヨーコがワルツを踊るシーンなどは必見。
しかし,この映画は結局制作途中で放り出され,完成までには非常に長い時間を要した。そのような中,「オーバーダビングを廃したライブなレコーディング」という趣旨で始まったこの"Get Back"のレコーディングは暗礁に乗り上げ,レコーディング・プロデューサーのジョージ=マーティンは膨大なマスターテープをレコード化することができず,テープは辣腕プロデューサーフィル=スペクターのもとに送られた。彼は女性コーラスやオーケストラをオーバーダビングして,当初ポールが意図したものとは全く違う形でアルバム"Let It Be"を作り上げた。しかしその手法にポールは反感を覚え,このこともビートル解散の一因になったといわれる。
この映画は,結構テレビで上演されることが多かったので,私が最初に見たビートルズ映画であった。
一番最初は確かどこかの高層ビルの壁面をスクリーンとして使おうという企画で,映画を上演している時間よりもそこに至るバラエティの方がはるかに長く,かなり辟易とさせられた。続いては,かまやつひろし氏が案内役となって話を進めるバージョンがあったが,これは面白い企画ではあったが多少違和感を覚えた。で,やっと深夜に完全版の放送があったが,私はビデオデッキの調子が悪く,最初の1分ほどを録画し損ねたのが生涯の後悔である。現在ビートルズ映画の中では「レット・イット・ビー」がビデオ廃盤中なので,私が見ることが出来る「レット・イット・ビー」は,この最初の1分が欠けたバージョンである。とっても悔しい!(>_<) 他の“ビートルズ映画”が全てDVDやBlu-rayとして発売されている中で,この作品だけが未発売。どうしても見たければブートレグか外国盤を探すしかないのが現状。一日も早いBlu-ray化を望む。
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